某日

それまで素通りしていた風景の隙間を埋めるように、桜の花が咲き始めていた。アパートとアパートの間、家とアパートとの間のような、どこまでが所有地なのかを表すためか、視線を遮る目隠としてのフェンスや塀が立っているような場所に、一本だけ桜が植えてあったりする。枯れて茶色くなった背の高い雑草が、斜めになりながらも、枯れる以前の面影を残したまま、何本 か立ったままになっていた。コンクリートで作られた塀はおおよそ彼の視線の高さくらいで、横 幅が1m程のブロックを5段積み重ねたものがワンセットになっていて、両端にコンクリートの柱 が一本ずつ挟まっているものが隙間なく並んでいる。塀の一番上には塀よりも厚さのあるブ ロックが載せられていて、横から見るとTの形になっている。それほど背の高くない桜の木の横 には蕾が濃いピンク色に染まった梅の木があって、まだ開花はしていない。桜の花は淡い色 なのに他の植物と違いなぜか目に留まる。何もない空間として素通りしていた場所に、薄いピ ンク色の花が咲いていると、そこに風景があったことに気が付く。光があり色があることが風景 を作り出していた。

引っ越してきたばかりの、歩き馴れていない駅までの道を歩きながら、この道がそう時間もかからないうちに歩き馴れた道へと変わるのだろうと思った。スマートフォンに表示された地図と 丸い点として表示されている現在地と扇形に表示された彼が向いている方角、厳密にはス マートフォンの向いている方角を確認して、現実に広がる空間と地図上の空間を照らし合わせつつ、どの道をどの方向へ向かえばいいのかを想像しながら歩いていた。これからもっと近い道を見つけたり、頭の中では繋がっていなかった道が、実はいつもの道をひとつ手前で右に曲がるだけで繋がっていた事に気がついたりするということがあるのだろう。

近所にある公園は桜の名所らしく、この時期に通りかかると花見をしている客が多い。芝生の張られた広場では、それぞれ自然な距離を保ちながら好きなように時間を過ごしていて、 キャッチボールやバトミントンをしている人もいるし、それを木の下のベンチからただ眺めてい るだけの人もいる。こうしてスマートフォンで文字を打ち込んでいる彼もついさっきまでは、ただ 公園に点在する群衆を眺めながらコンビニで買った缶ビールを飲み、クスノキの葉が擦れる音 を聞きながら、キャッチボールをしている少年が取りこぼして、彼の座っているベンチに向って転がってくるボールを拾っては、相手のグローブにめがけて投げ返してやるということを数回繰り返していた。公園の広場を囲うように木々が植えられていて、その枝葉の下にベンチが等 間隔で並んでいる。普段からこの公園を散歩しているであろう人が、春になって訪れた陽気な 雰囲気を体現する人々をぼんやりと眺めている。今着いたばかりの二人組がシルバーのビ ニールシートを芝生の上に敷こうとしていたが、強風に煽られたシートが空中で裏返ってしまい、うまく敷くことが出来ず苦戦している。

本当は彼女と来るつもりでいたが仕事の予定が入り時間が合わなくなってしまったので、花見の雰囲気だけでも感じようとひとりで来てみたのだった。こうして公園に広がる風景を彼はただ 眺めているが、それは彼一人が見ているというよりは、来るはずだった彼女の見るはずだった 桜や広場で遊ぶ少年達への視線と混じり合いながらも見ていて、でもそれは彼女が見るものとは違うはずのものだった。誰かと生きることは風景への回路(窓といってもいい)が増えるこ となのかもしれないと思いながら、再び飛んできてベンチにぶつかり跳ね上がったボールを キャッチして、グローブにめがけて投げ返した。少年は既に数回繰り返しているこの行為に慣 れはじめていて、軽く会釈だけして再び友人とのキャッチボールへと戻っていった。ボールを投げた後に右手を見みると、転がったボールについていた土が親指の付け根あたりに擦り付いて、普段使わない肩の筋肉と関節の痛みに少年野球をやっていた昔のことをぼんやりと思い 出していた。

リードに繋いだ大型犬(おそらくグレート・ピレニーズだ)を3匹引き連れながら歩いてくる人が いた。遠くからみていてもその大きさが分かる。おそらく立ち上がった全長は彼と同じかそれよ りも大きいくらいで、かなりの大きさだった。ゴールデンレトリバーが大型犬だとして、あの犬も同じ大型犬として分類するのだとしたらサイズが違いすぎるかもしれない。彼も猫と暮らしてい るがペットとして可愛がるというよりは(実際は可愛がっているのかもしれない)別々の時間を 生きている者どうしという感じがして(猫は日中ほとんど寝ている)、猫と生きていると猫を通して見ること(受け取ること)のできる風景が増える。それは日々の風通しを良くしてくれると彼は 感じていたし、そのことに救われることが何度もあった。こうして風景への回路が(窓が)増える と書いてはいるが、実際に見ているのは彼自身で彼が認識している光と色が、彼が見た風景 として、彼の見ている風景を作っているのであって、そこには彼女や猫の視線は実際には混じ り合っていない。それでもやはり彼は彼ひとりではなく、彼女や猫のような存在を通して見るこ とができる(受け止めることができる)ものがあると強く感じていた。カメラを通して見ているもの と彼が肉眼で見ているものの間にある隔たりというか、違いのようなものだろうか。それをカメ ラを通して見ることができる風景と言ってしまうのは簡単だし、簡単過ぎてそれはちょっと違う ような気がした。こうして比喩としてなにかを持ってくるのは便利というか、何かを捉えたような 気分になるけど、多分その瞬間に既に捉えそこねているような感じがしたし、公園で桜や群衆 を眺めながら感じているこの感じをどうやって明示すればいいのかを考えていた。

小学生の頃、自分が使っている言葉が自分が生まれる以前からこの世界に存在していて、その組み合わせの変換のなかで今までコミニュケーションをとっていたのだという感覚に襲われ たことがある。それは自分の言葉なんてものは初めからなかったのだという気付きと、自分が いくつもの地層の中に位置づけられる感覚を彼に与えた。視線はどうだろうか。彼の視線は初 めから彼だけのものなのだろうか。それともいくつもの視線を織り合わせた先に今の彼の視線 が生まれているのだろうか。そういう抽象的な話をしなくても、誰かに好意を抱いたり、あるいは親しい友人と居るときに、世界が少し違って見えるのだとしたら、それは彼の視線やそこか ら見える風景が他者の視線と織り合わさり、その関係性の中から生まれて来ている事の証明 なのかもしれない。でもそれは彼/彼女が世界を見通すために存在するのではなくて、自分と は全く関係のない存在としてそこに居ることによって生まれる視線で、彼/彼女を自分が見たい もののために利用しようという気持ちは一切なかった。それは言葉が自分とは全く関係のない 場所にあったからこそ、言葉ですくい取ることができるものがある事に似ているし、桜が桜として、少年が少年として、ボールがボールとしてそこにただ存在している事と同じだ。世界がただそこにある事を世界がただそこにあるというふうに見ることはできるのだろうか。

少し小腹が空いてきたので屋台へ行くことにした。同じように見えて少しずつ違う内容のメ ニューが立ち並んでいる。焼きそばを買おうと思いながら、売っていそうな一番近い屋台に目 星をつけて、そこで焼きそばを買った。もといたベンチに戻って、焼きそばを食べながら買って きていたもう一本の缶ビールの蓋を開けた。ビールを飲みながら、他人は他人という態度は冷 たいものなのだろうかと考えていた。昔から他人は他人であるという強い感覚の中で生きてい て、しかし、それは他人を見捨てるとか、無関心さの現れのようなものではなかった。もし桜の 全てが自分とあまりにも深い関係の中にあるのだとしたら、こうやってベンチに腰掛けてビー ルを片手に焼きそばを食べながら桜をただぼんやりと眺めている、なんてことは出来ないだろうし、その下で宴会を開いている彼らもあんなに気楽な表情で語り合うこともできないだろう。 それはとても窮屈だろうし、いいことのようには思えなかった。風も肌寒くなってきた。そろそろ 帰らないといけないと思いながら、ぬるくなり始めたビールをダラダラと飲んでいた。

あたりが薄暗くなりはじめると芝生の張られた広場には街灯がないことに気がついた。目の前 で立ち話をしている3人組が、夜はここは真っ暗になるから屋台の並ぶ方に花見の場所をとっ ておいた方がいい、と話していた。たしかに広場にいた人々はまばらになりつつある。暗くて困 ることもないと思いながら、もう少し桜の立ち並ぶ道を歩いてみようかと思い、屋台やビニールシートで埋め尽くされた方へと歩き始めた。
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