2023.04.30_日記
今日は石巻へ行った。いつも電車での移動中に読もうと意気込んで本を鞄にいれているが、車窓からの景色をぼおっとみているといつの間にか2/3は目的地に近づいていて、結局少しだけ読み進んで終わることが多い。住宅地や山や海が流れているのをただ眺めている。
2023.04.29_日記
快晴。4月から作り始めた庭が今日で完成した。個人宅の庭を作ることも減ってきているらしく、こうやって庭を最初から最後まで作ることができたのは凄くよかったのだと思う。庭の作り方を直接教わったわけではないけど見ていて思ったのは、まず四隅をどうするかを決めないといけないという事で、石を立てるのか、植木を植えるのか、フェンスで囲うのか、正面はどちらか、とか色々な条件の中で四隅を決める必要がある。たいていの庭は区切られた空間の中で作られる。空間をどう区切るのか、区切り(空間の境目)をどう視覚化するのか(あるいは隠すのか)が大切になってくる。次に動線を考える必要がある。日本庭園は鑑賞用として作られる事が多くて、その空間の中を直接移動することは少ないけど(だから視線の移動よって空間をどう運動させるのかを考える必要がある)、西洋風の庭はガーデニングをしたり、ベンチをおいてそこで休憩したり、庭の空間に直接入っていくことや、手を加えることが多いので、空間の中をどう移動させるのかを考える必要があって、これはインスタレーションというか展示空間をどう構成するのかを考えているときに近い。最後に全体としての印象を見る必要がある。木の向きや傾き一つとってもだいぶ印象は変わってくるし、張られた人工芝の色が濃いのか薄いのかだけでも違いが出てくる。これは臨機応変に対応していく。創作をしていることの良さはどんな経験(記憶)でも資本に出来ることで、この経験によって確実に展示構成とか、創作自体が影響されていくと思う。余談だけど、庭を作るときにかなりの量の砂(山砂や川砂)を使う。新築の現場ならもっと砂(砂利やセメントも)を使うのだろうけど、日々こんなに大量の砂が何処かから掘りだされて循環していることを普通に生活していたら気がつかなかっただろうなと思った。人はかなりの量の砂を日々移動させてる。
2023.04.28_日記
撮られた写真の背後に「個人の生」を読み解き(それ込みで撮影して)、それを作品の意味へと解釈しなおすのが「私写真」なのだとして、ただ撮られた写真とは何が違うのか、なぜ私写真と名指す必要があるのか。そうすることによって写真にどんな効果を持たせようとしているのか。という問のようなものがぱっと思いつく。
人が持つ情報量の多さ。
ただ撮られた写真は「個人の生」のような含みを持たないのか。
写真にジャンルはあるのか。山岳写真というジャンルがあるとしたら、それは写真の分類ではなくて、撮られた対象の分類、情報であって、写真そのものを分類しているわけではない。写真そのものは分類できない。技法や対象によって分類していて、小説なら、推理小説、SF、私小説、etc…があるがけど、どれも小説の題材や技法的な分類で小説そのものを分類しているわけではない。それぞれのジャンルがあると言われればあるし、ただはっきりと線引きされているわけではないし、ジャンルという意識を持たずに小説を書くことができるように、写真も撮ることができる。じゃあ分類する意味がどこにあるのかといえば、それは作る側というよりは見る側の意識に影響していて、情報として受け取るときの方向性としてジャンルがあることによって情報処理が楽になる。
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