2023.04.27_日記

雨の次の日が晴れていると光が透きとおっていてなんでも写真に撮れるという気持ちになる。今日がそういう日だった。何でも撮れるというのは、文字通り写真として何でも撮れるということで、どんな些細なことや、取るに足らない事でも写真にできる。それはデジカメ(スマホ)のシャッターを押せば写真が撮れるというのとは違う意味で、写真が上手くなるといのは、どんな場所でも(どんな対象でも)撮れるということなんだと思うし、ばえるばえないの外で撮れるということでもある。なんでも写真として撮れるというのがスタートラインで、その地点から何を写し撮るのかを考える(選んでいく)必要があって、それは大変なことでもあると同時に日々の中に表現が滑り込んでくることでもあり、楽しいことでもある。難しいのは上手くなればいいということでもないことで、写真を見たときに「上手い写真」という印象が最初に来るのであれば、それは撮られたものよりも撮ったか側の技術が全面に出てきているということで、「写真上手いですね(技術的に)」は褒め言葉ではない(個人的には)。問題は技術的に上手くならないと、(あるいは技術を引いていく方向じゃないと)次のステップにいけないことだと思う。

写真を写真として見ることは難しいことで、何処で作ったか(撮ったか)とか、誰が作ったか(撮ったか)とか、そういうことを込みで見てしまう。同じ内容なのに誰が発言したのかで判断に違いが出てきてしまうのもそのせいで、目の前にあるものや言われていることを文字通りに受け止めるのは、文字通りに受け止めるためのタフさが必要になる。それを誰が(どこで)作ったのかを含めて見ることを完全に無効にすることは難しいし、それが作品の固有性を作っている側面もある。その固有性と固有性を解除した状態を行ったり来たりすることが重要なんだと思う。

AIが恋人(大切な人)の人格や仕草を完璧に再現できたとして、恋人だと思い込んだ後にAIだったと告げられたとき、その再現された人格を恋人だと思い続けられるのか。東浩紀がこういったAIにまつわる問題を結婚詐欺に例えていて、婚約者だと思っていた人が実は結婚詐欺師だとわかったとき、その人を婚約者だと思い続けることは(その人に一緒に居てくれてありがとうというような感謝の念を抱いたりすることは)難しいのではないかと言っていて、これはAIが作者のタッチを完璧に再現して、かつ新しい作品を制作したとして、その作品をその再現された作者の作品だと思えるのかという話にも繋がってくる。おそらくAIが作ったと知った途端にそれを作者の新作とは思えなくなる。(それ自体をコンセプトにした作品はあり得るかもしれないがそれはまた別の話だと思う)。作品の背後にある作家性や場所性は作品の固有性を保証するもので、その最小単位が「誰が(どこで)つくったのか」なんだと思う。これが最大になると作家性だけが独り歩きするし、最小になればその作品の固有性(本物である感じ)がなくなってしまう。リサーチをベースに制作される作品は「どこで」をリサーチ対象から調達していて、地方の芸術祭でリサーチベースの作品が多いのは、それがいちばん効率よく作品の固有性を調達できるからだと思う。そう考えればその場所に固有な自然環境や歴史に重点が置かれるのは自然な流れなんだと思う。難しいのはその場所で生きている大半の人にとって、その場所で生きているという実感は、そういったあえてリサーチ対象になるような場所にはなないということで、リサーチや制作がうまく行っていないと「ここで」作られたことの必然性が感じられなくなってしまうことだと思う。それなら無理にその土地に文脈をつけずに作品が作品として存在していた方が清々しいしと思うし、鑑賞者に新しい出会いを与えてくれると思う。個人的な欲望としては、鑑賞によってその場所から消えていくという欲望があって、これはさっきまで書いていた制作(鑑賞)の方向性とは違ってくるし、固有性の発揮のされ方(あるいは固有性に寄りかからずに制作する方向性なのかもしれない)も違ってくると思う。
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