2021.03.31

晴れ、とても暖かい

 ドトールで宮地尚子の環状島=トラウマの地政学を読んでいた。編集用のPCを自作PCにするか考えている。次購入するカメラとしてsigma fp lとSIGMA 24-70mm F2.8 DGDN Artがいいかなと思っている。なんとなく黒嵜想、大和田俊、福尾匠のペリスコ配信を観た。ペリスコというサービスを初めて使った。使いやすそうだったが今日でサービスは終わりらしい。手術した指に針金が刺さって突き出しているので、指先に何か触れると表面的な感覚と針金を伝って内側の感覚がどうじにやってきて変な感覚。これがあと1か月続くのか。


 「それよりも中空構造を直視し、この問題に巻き込まれながらも発言しない・できないでいる人たちがいるのではないか」「この問題はどのような広がりのどのような高さの環状島を形成しているのか」「この環状島のどこに位置して、どのような発言をしている(またはしていない)のか」「この人の発言は、環状島のどの範囲の人たちの存在にあてはまる内容か」「この人は環状島の他の場所にいる人たちの存在にどれくらい気付いているか」といった問いを立てることに、可能性が見いだせはしないだろうか。(1)


(1)宮地 尚子 環状島=トラウマの地政学 2018.07.05 みすず書房 p16

2021.03.29

 晴れ

 7時に起床。はるひが二日酔いでひどそうだったので、コンビニでポカリとヘパリーゼを買ってきてあげる。歯を磨く。荷物をまとめて平屋に行きデータの整理をする。夕方志村さんと打ち合わせをして帰宅。

2021.03.28

 曇りのち雨、少し肌寒い

 一昨日、指の手術をして、その痛みのせいもあって日記がなかなか書けなかった。手術は部分麻酔で行ったので、骨を触られている感覚や血がつたってくる感覚があり少し気持ち悪かった。麻酔は手術後数時間効いていたが、麻酔がきれてからは結構な痛みだった。病室は暇だったので、自分のサイトを作っていた。夜はあまり眠ることができなくてつらかった。次の日は痛みは少し引いていたがやはり痛かった。

 今日ははるひと牧場ラーメンを食べに行った。はじめて食べた。美味しかったが可もなく不可もなくという感じで、とびきり美味しいというわけではなかった。隣にあった蒸しパン屋で蒸しパンを3つ買い、山に行き帰宅。はるひに頼まれて安野モヨコの監督不行届きをツタヤに借りに行った。Tカードの有効期限が切れていて、身分証がなかったので一度家に戻り、また借りに行った。ついでに柳美里の「南相馬メドレー」を買った。帰りにスーパーでパンとクリームチーズとノンアルコールビールを買って帰宅。

https://hayatokano-official.blogspot.com/

新しい自分のサイト。

次の個展のタイトルは「偶然の波うちぎわ」になりそうなきがする。

2021.03.25

曇り

 9時に起床。歯を磨き、部屋の掃除をする。お風呂の掃除をして、シャワーを浴びる。コンビニでおにぎりとスパイシーチキンとモカブレンドを買いご飯を食べる。映画をみて、昨日注文した本が配達されたので受けとる。市役所で明日必要な証明書を発行してもらう。

 偶然の波打ちぎわにたつ。他者も自然も偶然に満ちている。他者は自分の思い通りにはならないし、自然は偶然そのもののように思える。そんな、どうする事もできないものと向かい合う、偶然の波打ちぎわに佇みながら、形を変えていく波線を眺め続ける時間、その時間こそが重要なのではないか。



2021.03.24

快晴、春の匂い

 8時に起床。部屋の掃除をして、ごみを出す。洗濯機をまわして、シャワーを浴びる。コンビニでスパイシーチキンとシーチキンサラダを買い朝食兼昼食をとる。ともみさんに提出する撮影料金の価格表案をつく作る。石巻工房のショールームへ行きコーヒーを飲む。帰宅してはるひはカラオケへいった。Amazonで宮地 尚子の「トラウマにふれる―心的外傷の身体論的転回」と「環状島=トラウマの地政学」を購入。あした届く予定。




2021.03.23

 晴れ

 7時に起床。外出の準備をして、8時にキワマリ荘へ向かう。案の定みしおくんは寝坊で30分遅刻。みしおくん、平野くん、SoftRibさんと秋田市にあるオルタナスに向かう。お昼ごろに到着し開催中の個展をみて、お茶をして解散。草薙さんなどの展示をみて、浜辺へとむかった。しばらく浜辺を散策し、スーパーで肉などを買い再びオルタナスへ向う。夜はオルタナスとその他のお客さんたちとご飯を食べ21時に秋田を出て26時頃に帰宅。アパートにつくとはるひが精神的にダウンしていた。ODをしたのかもしれない。その対応をして就寝。長い1日だった。








2021.03.22

 晴れ、風が強い

 7時半に起床。歯を磨き猫に餌をやる。パンと卵とハムを焼く。コーヒーを淹れ朝食をたべる。はるひは9時前に出社。自転車でセカンドストリートへ行き、thinkpad x260を買う。新しいmacが発表されるまではこのパソコンでしのぐつもり。平屋で購入したパソコンの状態を確認しセットアップを終わらせる。iroriへ行き昨日購入した本を読む。スーパーで食材を購入して17時に帰宅。洗濯機を回し、はるひの運転でコインランドリーの乾燥機をかけにいく。車内でちょうどやっていた庵野のプロフェショナルを見る。しばらくして帰宅。

2021.03.21


 10時頃起床。トーストと目玉焼きとソーセージを焼いて朝食。はるひとTSUTAYAに行き「語りえぬものを語る」を購入。セカンドストリートへ行きコーヒーメーカーとコップを購入。幸楽苑で昼食を食べる。帰宅して買った本を読む。



2021.03.20

 曇りのち雨、寒い1日だった

 8時に起床。ローソンでおにぎりを2つ買い朝食。9:30からyottaさんの金時を撮影。鮎川までいった。帰宅してイトナブのイベントに行こうとしていたら、ちょうどはるひがアパートにきたので一緒に車で送ってもらう。途中で震度6ほどの地震があり、津波警報もでたので、そのまま日和山まで避難。1時間経過後帰宅。本などが散らばる程度で大きな被害はなかった。

2021.03.19

 晴れ

 起床。歯を磨く。燃えるゴミを出す。コンビニでサンドイッチとコーヒーを買う。スーパーでハヤシライスの材料を買いお昼を作る。MKE440が実家に届いたので、はるひの運転でとりにいく。途中スターバックスのドライブスルーで飲み物を買う。14時からyottaの金時の撮影があった。19時頃に職質にあう。その後解放されて解散。こんびにで弁当とyonayonaを買い帰宅。

2021.03.18

晴れ 

 8時に起床。目玉焼きとハムとパンを焼きクリームチーズとメープルシロップをつけて食べる。昨日届いていた「指差すことができない」という詩集を読む。洗濯機を回し、洗濯物を干す。掃除機をかける。領収書の整理をする。「壁ぎわの記憶 -空間の物語-」という大崎清夏が行っている連載を見つけた。面白そうなので後で読んでみる。なんとなくLang Leeのインタビューを読んだ。


私はお金について日本の友達にも詳しく尋ねます。家賃がいくらか、ギャランティがいくらか。日本ではそういう話すると友達の仲でも“え……”って感じになっちゃいますね。でも、そういう話をしないと”頑張らなきゃね”ってだけで全部が曖昧になってしまう。韓国ではみんなではないけれど、私の周りの人たちはお金の話をよくしてる。みんなのお金事情がわかれば計算ができるから、解決する方法もみんなで考えられる。生活って具体的な問題だから、具体的に考えなきゃダメだと思う。私の友達には家具を作っている人がいて、必要なものを作ってくれたりする。それも、私たちが具体的な話をしているから、ただの想像じゃなくて私に何が必要か具体的に知ってくれているからできる。そんな形になるのが、お互いに役に立てて良い。(1)






(1)Lang Lee「韓国現代文学特集 : イ・ラン インタビュー “できるだけ具体的に話すこと」2019.03.01 https://www.neol.jp/culture/79566/

2021.03.17

 晴れ、風が強い

 8時に起床。歯を磨き、朝食のパンとベーコンと目玉焼きを焼く。はるひに日赤病院へ送ってもらう。診察を受け来週の金曜日に手術をすることが決まる。採決をされ、はるひとタリーズで合流する。マックのドライブスルーでエグチセットを頼んで帰宅。平屋へ行きたのまれていたイトナブ10周年へむけてのメッセージを撮る。帰宅して夕飯をたべ、撮影につかうmke440というマイクをAmazonで注文する。

2021.03.16

 曇り

 そこにたとえば風景論が成り立つ根拠がある。つまりそれぞれの個人なり、民族なりがさまざまの仕方で風景を〈身分け〉されている。それからまた、社会的風景というべきもの、つまり他者との関係があります。他者との関係のなかで自分の身が〈身分け〉される。そういう〈身分け〉の一つのケースとして、空間をとらえてみたいと思うわけです。(1)


 たとえば、生きられる空間にには〈場所〉というものがあり、〈方向〉というものがある。したがって空間それぞれの部分はお互いに異質です。ニュートンが考えたような絶対空間は、どこをとっても同じであるという意味で均質空間といえます。それに対して、われわれが生きている空間には、常にここがあり、あそこがある。そして、いつもここからあそこへと一つの展望(パースペクティブ)でもって世界をとらえています。ここ-あそこという場所性があり、ここからかなたへという一つの展望がある。そして展望のかなたには、また展望の背後には、とらえ得ない拡がりが拡がっていて、それをわれわれは地平と読んでいます。そういう意味では生きられる空間は無限空間ではなく、或る有限性をもった空間であり、奥行きのある空間です 。ここという場所性がなければ、隔たりというもの、距離というものはないといっていい。(2) 


 こことあそこ。大陸と島。つなぐ海。行き交う船。こことあそこでもない、どちらかではなく、近づき離れていくなかで身構える。思考する。その時間がすべて。 



(1)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p142-143

(2)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p144

2021.03.15

晴れ、風が少し強い

 7時に起床。歯を磨いて、洗濯物を干す。もう一度洗濯機を回し、残りの洗濯物を干し、コンビニへ行く。コーヒーとスパイシーチキンを買う。iroriへ行き身の構造を読む。はるひから電話があり、元気の湯に行きたいと言われたので、一緒に行くことにした。久々にサウナと露天風呂に入れて心地よかった。帰宅。昨日Amazonで注文した「狸の匣」、「美しいからだよ」、「する、されるユートピア」という3冊の詩集が届く予定だったが、配達とすれ違いで明日郵便局へ受け取りにいくことにした。

2021.03.14

 雨のち晴れ

 9時頃起床。はるひに車でおくってもらい11時過ぎにキワマリ荘へ行く。その後iroriへいき身の構造を読む。電車で塩竈に行き、塩竈市杉村惇美術館でかんのさゆり、菊池聡太朗、畠山直哉のクロストークを聴いた。時間の都合で途中退席して帰宅。キワマリ荘へ行きくるみさんに会う。みしおくん、平野くん、SoftRibさん、くるみさん、はるひで焼き肉を食べにいく。

2021.03.12

 晴れ、暖かい

 8時に起床。9時過ぎに志村さんが迎えに来て、山川さんの撮影の現場へ向かう。到着して機材の準備と軽い打ち合わせをして昼食をとる。さこさんが作ったカレーとはっと汁を食べる。3時まで待機し本番前のリハーサルを行う。一旦戻り小休憩。船乗り場に戻り本番の撮影。無事に終了。帰宅。はるひがお風呂を入れてくれていたので湯船に浸かる。

2021.03.11

 快晴、とても気持ちの良い天気

 7時半に起床。歯を磨き猫へ餌をやる。トーストと目玉焼きとベーコンを焼いて朝食をとる。東浩紀の突発放送のアーカイブ を見る。コンビニでフルーツミックスサンドとモカブレンドを買って昼食を取る。14:46、黙祷のサイレンが鳴る。1分間黙祷をする。平屋に行き、その後に整形外科に行って怪我をした指を見てもらう。骨が折れていたらしい。手術が必要な可能性が高い。


 この章で僕が最も伝えたいことを前もって書いてしまうと、地域のためとか、復興のためとか、家のためとか日本のためとか、そういうことは一切考えなくていい。あなたはあなただけの人生を堂々と歩むべきだ、それが地域とともに生きること、課題とともに生きることなんだ、ということです。 
 災害が起きたり、課題が深刻になると、「復興のため」だとか「地域のため」だとか、個人よりも大事な何かが生み出され、多くの人がそれに動員されていきます。日本の、特に課題だらけですから、こちらは、地方の再生のために命を投げ出すような動きが称賛されるかもしれません。けれど、そういうものはまやかしだと思っています。そんなもののために自分を犠牲にしないでください。大事なのはあなた自身です。どこまでも自分の関心や興味や、自分の課題や生きづらさから出発すればいいんです。それぞれが多様な自分だけの「復興の物語」や「地域創生の物語」を生きればいい。僕がこの章で言いたいことは実はそれだけだったりします。(1)


 地方で作品を作ることに、被災地という場所で作ることにどういった意味があるのか、そう問われたことがある。正直その問いに僕はピンときていなかった。そこで問われことに対して、誰かが納得できる回答を与えられたとして、どれだけの価値があるのか。

 復興のため、地域のため、そういう名目から逃れるために生きてきた。高校生の頃からこの言葉が持つ曖昧さに違和感を感じつづけてきた。もっと違う形で、この土地と関わりを持てるのではないかと思ってきた。自分がこの場所でやりたいと思えることにちゃんと向き合うこと、それが復興に似た何かなのではないかと高校生の僕は考えていた。


(1)小松理虔 地方を生きる 2021.01.10 ちくまブリマー新書 p173-174

2021.03.10

晴れ

 8時に起床。歯を磨き、猫に餌をやる。肉じゃがを温めて朝食をとる。ドトールへ行く。伊藤亜紗の「記憶する体」を少し読む。スーパーで朝食用のパンを買い帰宅。猫に餌をやり、平家の様子を見にいく。炬燵がつけっぱなしだった。みしおくんが消し忘れていたのだろう。帰宅して家の掃除と洗濯物を干し食器を洗う。夕飯にフランスパンのトーストとコンビニで買ったカニカママヨネーズ和えを食べビールを飲む。ヴァレリー 芸術と身体の哲学を読了。二周目に入る。


 いかにしてある出来事が体に刻まれるのか。刻まれた記憶はその体においていかに作動するのか。(1) 

 

 一方、本書が扱うのは、出来事としての記憶そのものではありません。特定の日付を持った出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカルルールに変化していくか。
 つまり。この本で注目したいのは、記憶が日付を失う過程です。(2)

 

 健常者としての記憶が刻まれた体で、障害のある体を生きることが彼らの体が二つあるように見える原因です。「多重人格」ならぬ「多重身体」。一つの物理的な体の上で、健常者の体と障害者の体が重なり固有のパターンを作り出します。(3)

 

 暗算で行う場合、私たちは全てのプロセスを頭のなかに保持しつづけなければなりません。けれども筆算の場合には、大きな計算のプロセスを小さなプロセスに分け、書かれた文字に対して足したり掛けたりといった機械的な操作を行えばよいことになります。「書く」は「考える」を拡張する手段になるのです。(4) 

 

 重要なのは、吃音含めなんらかの障害を持った人間である、ということではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた、その長時間の蓄積こそ、その人の体を、唯一無二の代えのきかない体にしているのではないか。 
 つまり、〇〇であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごしてきた「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(5)

 

 とても共感する。なぜなら石巻で生まれたという属性、被災者という属性ではなく、石巻という場所とともに生きてきた「時間」、震災という出来事に向き合った「時間」が重要であり、属性に縛られる必要はないのではないかと考えてきたからだ。以前作った作品も石巻で過ごしてきた「時間」をテーマにしている。それは石巻出身という属性を重視していなかったから生まれた作品だと考えている。 

 

 なぜなら、どんなに科学技術が発達したとしても、思い通りにならないことと、人為的に介入しうることの間で人類は悩み、そして発見し続けるだろうからです。条件は変わるだろうけれど、問いとしては同じ。それが体を持った者の宿命だからです。(6) 


 自然と人為の間で人は悩み、なにかを発見していく。それは普遍的な営みなのではないか。 



 




ラベルを階層表示できるように変更してみた。下記のサイトを参考にした。
CSSの追加位置は、下記のサイトを参考にした。
階層の開閉機能を無くしたい場合は下記のサイトのコメント欄が参考になる。



(1)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p9

(2)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p10

(3)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p12

(4)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p35

(5)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p268

(6)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p275

2021.03.09

 晴れ、少し肌寒い

 8時起床。昨晩作った肉じゃがを温めて、お米を炊き朝食をとる。部屋を片付け、猫のトイレを掃除して、燃えるゴミを出す。ドトールに行きヴァレリーの続きを読む。帰りに薬局で歯磨き粉と新しい歯ブラシを買い帰宅。洗濯機を回し、イシノマキアートはい!スクールの映像編集を進める。字幕を追加した。猫に餌をあげて、コンビニへコーヒーを買いに行く。夕飯は残りの肉じゃがを食べる。ノンアルコールビールを飲んだ。なんとなく「世界の車窓から」をAmazonプライムで流して、本を読む。お風呂を洗ってお湯を入れた。

 デザインは行為の可能性を限定していく。芸術は行為の可能性を拡げていく。ような気がする。

2021.03.08

 晴れ

 シン・エヴァンゲリオンを観るために、7時に起床。自転車でイオンシネマ に向かい、8時半からの上映を観る。とても良かった。感想は後日書く。鑑賞後スタバでシラスのエヴァ回を観る。しばらくしてからマックにより帰宅。部屋の掃除をして、食器を洗う。ともみさんと写真の仕事の価格帯を決めるオンラインミーティングをする。はるひが撮影で使った蟹を持って帰宅。コンビニでビールをかい夕飯を食べる。明日の朝に食べる肉じゃがを作り、風呂に入って就寝。

2021.03.07

 晴れ

 10時に起床。はるひの運転の練習もかねてドン・キホーテとイオンに行ってきた。どちらも物と人が多くて疲れる。イオンの中にあるマクドナルドでビックマックセットを注文して昼食。本屋で「地方を生きる」を買う。帰り際にドイツのビールを買って帰宅。編集中の動画の作業を進める。7割ほど終わる。音声の調整、字幕の追加、クレジットの追加で完成予定。風呂に入り、昨日の撮影でもらったローストビーフとビールで夕飯をすませる。明日は8時半からエヴァの映画を観る。

2021.03.06

晴れ

    7時半に起床。クロワッサンとコーヒーで朝食をとる。9時から商品の物撮りの仕事があった。通販サイトで販売される商品。コンビニで買ったチキンとコーヒーで昼食。4時半頃に撮影が終わり帰宅。映像の仕事の編集を進める。コンビニで納豆巻きとフランクフルトとノンアルコールビールを買い夕飯を食べる。

2021.03.05

 快晴

 8:30に起床。いつもより遅い。シャワーを浴びる。エヴァンゲリオンの初日のチケットを予約した。8日の8:30から上映。iroriへ行きヴァレリー芸術と身体の哲学の続きを読む。2時から前面貸し切りだったので、珈琲館へ移動する。はるひから電話があり鍵を忘れたと言われたので、帰宅して鍵を開けてあげる。洗濯機を回し、掃除をする。燃えるゴミを出し忘れたことに気がつく。来週の火曜日に出すことにする。百均にハンガーを買いに行き、ツタヤによって「〈ものまね〉の歴史」と「論理トレーニング101題」を買う。スーパーでビールと白角水割と白身のフライとカレーを買って帰宅。シラスでやっていた「コロナの現実とホラーの可能性、あるいは人形というメディア」を見ながら夕飯。


予期とは、過去を手がかりに未来に起こりうる出来事を想定することであり、現在を過去と未来という二つの方向に結びつける契機である。(1)

 

予期されたものと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は、不意を打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、、主体は、迷い、混乱し、ためらう。(2)

 

意識されているか否かにかかわらず、覚醒している限り予期は常になされている。予期することは必ず、その出来事の生起に向けて身構えること、応答するための行為を身体的に準備することを伴っている。そしてこうした身構えが、私たちと外界の出会い方を大きく左右するのである。予期しだいでは、同じ出来事であったとしてもその価値はまったく別のものに変わってしまうだろう。ヴァレリーが重視するのは、出来事それ自体の価値ではない。あらかじめ予期によって状態づけられた私たちにとっての、その出来事の価値である。(3)


観念そのものの価値と、その刺激としての価値、つまりそれが出来事として私たちに及ぼす作用を、区別しなければならない。ある観念が刺激としてどれだけの価値を持つか、つまりその観念のまわりにどれだけの観念を形成するかは、そのつどの主体の側の条件によって変化する。(4)


 元々現代アートに興味があったわけではない。幼い頃身の回りに現代アートと言えるものは微塵もなかった。幼い頃の記憶は空き地と住宅の建設に結びついている。遊び場は住宅の建設をまつ空き地だった。今街に広がっている均質的で似たような建物が並ぶ風景は自分にとって故郷の風景に重なる。この均質的な風景をどう捉えていくのか。


「どういうこと?」と問われて「つまり」と応じ、具体的に説明しようとするなら「たとえば」と応じる。「それから?」と問われて「そして」と応じ、「どうして?」と問われて「なぜなら」と続ける。あるいは、相手が思っているのとは違う方向に話を転換させようと思ったならば「しかし」と切り出す。 

 

文章は、それがたとえモノローグの見かけを持っていようとも、基本的に対話の構造を持っている。議論を読み解くとは、なによりもまずこうした問いと応答の流れを読むこと、その対話の構造をつかむことである。そのリズムが送り手と受け手で共有されたとき、わかりやすい文章が生まれる。(5)

 


(1)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p154

(2)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p156

(3)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p158 

(4)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p159

(5)野矢茂樹 論理トレーニング101題 2001.05.15 産業図書 p9-10

2021.03.04

 快晴

 コンビニのシーチキンサラダを食べて朝食。本を読んで、お昼になったので、昨日買っておいた根菜カレーを食べる。なんとなく福尾匠のYoutubeに上がっている「作品と広告」という動画を見る。ともみさんに請求書を出して、洗濯機を回す。Amazonから注文していた本が届く。「見立ての手法」「グリッドシステム」「エクソフォニー」「空間へ」。あいのやとヨークベニマルに数日分の食料と猫の餌を買いに行く。肉じゃがのための食材を買って帰宅。洗濯物を干す。はるひがノンアルコールビールを買ってきてくれた。ここ数週間はアルコールをとっていない。1日が長く感じる。


作者の意図の代わりに、私の意図が入っているだけなんですよ。作者の意図を作品から取り除けるのであったら、私の意図っていうものもそこに持っていく必要はないはずで、意図(作者)と意図(私)のやりとりというレベルで考えている限りでは、広告的なものというのは脱することはできないと思うんですよね。ていうのは、人がどういう意図を持っているというのは、必ずなんらかのリスク計算や利益計算がなされているものなので、そこにはあらかじめ自分が求めているものしか見えないっていうことが起きちゃうわけですね。だからこそ、今日冒頭で言ったように作品の内実っていうものを見ずにすんじゃうわけですよ。(1)


タコは岩を見るとその岩に似るんですよ。だから、岩に隠れられるわけですよね。……人間は身体ごと変化するわけじゃないけど、何かを知覚する、何かを聞いたり見たりするっていうのは、部分的にそういうものを含んでいると思ってて、何かと本当に出会うっていうのは自分が変わっちゃうということなので、何かが作品としてそこで見られるってことと自分が変わること、もっと言えば消えちゃうことですね、隠れちゃうこと、人から見られなくなっちゃうこと、まさにタコが岩を見て岩に似るようにですね ……他の人から知覚されなくなるというのがどう言ったことかというと、さっき言ったような「あなた」と「私」とか、「我々」と「彼ら」とかっていう敵味方のロジックに拐取されない部分を作れるんじゃないかと思っています。(2)

 

それに対して作品っていうのがルアーじゃないとしたらなんなんだろうと思ったら、デコイ、おとりだと思っていて僕は、デコイっていうのは、私が消えるための装置なんですね、私が私じゃないものになるとか、私が人から見えなくなるとか...(3)


(1)(2)(3) 福尾匠 哲学対話 PARA SHIF「作品と広告」2020年2月22日

https://www.youtube.com/watch?v=e7XnCq2lwEw

2021.03.03

 晴れ、風が少し強い

 トーストとベーコンと目玉焼きを焼いて朝食。映像を編集するためにデータの整理をする。まず必要なフォルダを準備することから始める。やりやすいことから少しずつやっていかないと終わらない。まず手が動かせることから始める。コンビニへ行くために外に出る。ブルーインパルスがかなり低い位置を飛んで行った。カップヌードルとホットコーヒーのMサイズを買う。エヴァンゲリオンの予告を観ていたら宇多田ヒカルが聴きたくなり、spotifyでしばらく宇多田ヒカルを流していた。夕飯に半額になっていた、鶏肉と揚げ餃子の弁当といちごのサンドイッチと水を買う。


したがって、問に応答するゲームとしての詩作は、自己表現というより自身のプレイヤーとしての能力を試し鍛える「練習」のようなものである。もっとも、詩作を「練習」とみなすといっても、それはもちろんヴァレリーが自身の詩の質に関して無頓着であったということを意味するわけではない。上の引用にあるように「練習」として詩を作るとは「即興に抗う」ものでなければならず、一歩一歩、一語一語、語を置きつつそれを条件と照らしあわせるという、そのつどそのつどの判断が要求される作業である。(1)

 

みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を自分の実存と結びいた必然的な表現とみなさないことは、逆に偶然思いついた表現をあたかも自分の語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。偶然の語であったとしても、作詩をゲームととらえる以上、その語は自分の今後のゲームの展開を導く「問い」に他ならないからである。それはちょうど、カードゲームにおいて最初に配られたカードを自分のものとして引き受けるのと同様である。(2)



(1)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p137-138

(2)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p138

2021.03.02

雨、湿度が高い、冬が終わりつつある

 いつもより少し早く7時に起床する。加工場でバイトしてた時は毎日6時前には起床していた。炊き込みご飯を炊く。燃えるゴミを出す。平家のゴミも出さないといけないので、平家まで自転車で行きゴミを出す。帰宅後、目玉焼きとベーコンを焼き朝食をとる。ヴァレリー芸術と身体の哲学の続きを読む。コンビニにコーヒーを買いに行く。朝は降っていなかった雨が降っていた。昼食は昨日買ったパンにクリームチーズとメープルを塗って食べる。夕飯にシーチキンサラダとカップ焼きそばを食べる。普段はシャワーだけだが、久々に湯船に浸かった。今日はロシアのどこかの街のラジオをずっと聴いていた。

 若い作家のインタビュー動画を見ていて、その人について検索していたら、23歳で亡くなっていることを知った。映像を見る限り生きているだろうと思っていたので、喪失感のようなものに襲われる。Twitterで亡くなった本人のアカウントから訃報が知らされる感覚に似ている。死後も映像やアカウンは残り続けている。

2021.03.01

 晴れ、かなり暖かい、春の兆し

 チーズ塩パンとフランクフルトを食べる。シラスで放送したいたよしながふみの「大奥」についての放送を観ていたら、Amazonで注文していたサイアノタイプの薬品が届く。ドトールに行ったついでに(また行っている)大奥の漫画を借りようと思ったが、Tカードを忘れていて断念。1話だけ無料で公開されているので、とりあえずそれを読むことにする。シン・エヴァンゲリオン劇場版の公開日が発表された。いつ観に行くか悩む。


 個展の作品でレンチキュラーレンズを使う予定だったが、本当に必要なのか考え直している。そもそも1枚のプリントで10〜15万円くらいかかるし、使うことに必然性があるのか考えている。それよりもcanonのプリンターを買った方がいいかもしれない。


 ポール・ヴァレリーが朝まだ暗いうちから数時間、毎朝書いていた「カイエ」という思索ノートを読んでみたくなった。50年間描き続けていたらしい。ノートで261冊。そんなに続けられる何かがあるだろうか。とりあえず、昨日届いた本を読み進める。


 23時頃コンビニへ行くために外へ出たら夜風が生温く、少し磯の香りが混ざっていた。懐かしさがある。最近、Radio Gardenという世界中のラジオを聞けるアプリで色々な国のラジオを聴いている。ノルウェーやイギリスのラジオをよく流している。


 ドラックストアでいつも使っている歯磨き粉を買い忘れたので、コンビニで一番安いものを購入してその場をしのぐ。

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