仕事がいつもよりも早めに終わったので早めに帰宅して、シャワーを浴びて、彼女にお願いされていたクリーニングしていた服を取りに行った。夕飯に棒棒鶏を作る。
2023.06.25_日記
庭の木を梯子に上りながら刈り込んでいると後ろにあった低木に音もなく蛇が上ってきた。刈り込みは深すぎても浅すぎてもきれいに見えない。木それぞれの刈り込みの深さと形があって、今はそれを見つけながら刈り込んでいるので時間がかかってしまう。慣れていけば直観的にイメージできるようになるのだろうか。
2023.05.24_日記
庭はなにも手を加えなければ荒廃していく。木は簡単に病気になるし、枯れていく。でも、そこに植物がなくなることはなくて、維持しようとしていた庭の形が解けて、庭か荒地なのか曖昧な空間になる。
2023.05.23_日記
身近な存在を撮ることと、日記で身近な存在を登場さること、その存在についてどこまで撮る(書く)かの問題は重なっている。
個人の生を作品の裏側(深さ)を醸し出すためのものとして使いたくはないが、人生が一回しかない、再現不能なものであるということが作品へと跳ね返ってくることは避けられない。
写真には愛は映らないし、関係性も映らない。写真の見え方は変化していく。そこに映っているものがどう見えるかということでもあるが、一枚の写真を見ているときに流れている時間の変化が関係してきている。
結局そうなってしまった、そうならざるを得ないという偶然性が重要だと思う。写真を事後的に自由に編集できたり、AIによって画像生成できるようになったことが、この偶然性にどう関与してくるのかが写真にとって重要なんじゃないかと思う。それは生とAIの関係性について考えることでもある。
撮るという行為と撮られた写真(素材)を編集する作業の関係性。どこまでが「撮った」といえるものなのか。デジタル写真は「撮った」という瞬間的な行為を偽装している感じがする。特にスマホのカメラアプリとか。シャッターは今撮ったんだという感覚を味わう(確認する)ためのものになっている。
撮影行為を短い時間軸でとらえると、シャッターを押したその瞬間の行為について考えることになるが、もっと幅のある時間軸で考えた時に撮影行為の見方は変わってくるような気がする。
人はどうして人をとるのか。風景を撮ることと何が違うのか。人は人しかとれない?
2023.05.22_日記
疲れていて夜に一枚だけしか写真を撮ることができなかった。月に何度かこういう日がある。労働をしながらも作り続けていくこと、創作を継続するための手立てと生活を継続するための経済的な手立ての不一致は解消するべき(解消できる)ものなのだろうか。生活と創作を折り合わせることを考えているのは、生活を維持するための活動が創作に跳ね返ってくるだろうという期待をもつことで生活を続けるモチベーションを保とうとしているからだと思う。
2023.05.21_日記
家から仙台駅まで向かうバスがいつもより混んでいた。駅に近づくにつれて人だかりができてきて、歩道沿いに座っている人たちもいたので、なにか祭りでもあるのかと「6月21日 祭り」で検索すると、青葉祭りをやっているらしいことが分かった。歩道沿いに並んでいる人々は仙台すずめ踊りを見るために並んでいるみたいだった。バスの乗客のほとんどは祭りに来た人たちで、駅に着く前にみんな降りていってしまった。自分も降りて少しだけ様子を見ようかと思ったが、石巻に行く時間が遅くなってしまうので、バスを降りるのはやめて予定していた時刻の電車に乗って石巻へ向かった。
石巻行きの電車の中で「身軽さ」について考えていた。最近は身軽でありたいという気持ちが強くなってきているのだが、身軽であることと気楽であることは違う気がしている。「身軽さ」は、手持ちのものでどれだけのことができるのかを真剣に考え続ける態度によって生まれるものだと思う。
田植えの終わった時期かと車窓から外を眺めているとアオサギのような鳥が8羽ほど田んぼで餌を食べているのが見えた。
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