2021.02.26

曇り

 朝ごはんはトーストだった。志村さんに提出する請求書を作ってコンビニでスキャンして送信。はるひがお昼ご飯とコーヒーを買ってきてくれたので昼食。午後はドトールで伊藤亜紗の手の倫理を少し読んだ。アメリカンコーヒーとアイス抹茶ラテとジャーマンドックを注文した。帰りにスーパーでとんかつ弁当と割引の苺とノンアルコールビールを買った。


 まっさらな土地に何か造られていて、過去も現在もなくて。未来のことは語っているんだけれど、その未来の話も手ごたえがなくて、伝承って何だろうと思いました。(1)

 

 先日、塩竈市杉村惇美術館でやっている、かんのさゆりと菊池聡太朗の「風景の練習」という展示を観てきた。文章は五十嵐太郎を加えて行われたクロストークの記録を読んでいて目にとまったもの。「その未来の話も手ごたえがなくて」というところが身に染みた。

 伝統を引き受けることは常に今あるものを再定義していくことで、訂正可能性に開かれていなければ伝統を引き継ぐことはできない。これは東浩紀がシラスの放送で言っていたこと。(うる覚えで書いてる。)対象が訂正可能であることを忘れるとナショナリズムや排外主義に陥る。

 中谷礼仁の「セヴェラルネス+: 事物連鎖と都市・建築・人間」という本では先行形態という概念が紹介されている。街の中に突然現れるカーブが、同じ場所に元々あった前方後円墳のガーブに沿って作られている。つまり、人々は先行して存在していた形態に影響を受けながら街を作っているということになる。それは、無意識的な歴史の参照でもある。そこから、広島原爆投下のような先行する形態が何もない焼け野原になったとき、人々はどうやって街を再建するのかという問いに向かっていく。この本は広島について触れているが、必然的に津波の被害で更地になった被災地はどうなのかという疑問が生まれる。(この本はとても面白いのでおすすめ)

 石巻の街は常に更新され続けていて、数ヶ月単位で新しい建築物が立ち現れている。しかし、そこにはその場が持っている歴史への再定義がないし、はたして広島のような先行形態からの豊な影響、無意識的に受け継がれている歴史のようなものがあるのだろうか。

 過去も現在もない街に石巻はなっていくのか、未来の話にどうやって手応えを覚えていけばいいのか...






(1)かんの さゆり「風景の練習 「Practicing Landscape」クロストーク 」塩竈市杉村惇美術館

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