2023.08.20_日記

石巻に行く用事があったので仙台駅まで向かう。彼女が駅まで送ってくれる。次の電車まで時間があったのでドトールでモーニングセットを頼んで食べた。なんだか久々にドトールに入った気がする。新しく駅の一階に出来たカフェが並ぶ区画を歩いてみたが、一通り歩きながら眺めてみて、まあドトールでいいか、となったのでドトールに入った。店内はほぼ満席で空いていた一人用の席に座りサンドイッチをアイスコーヒーで流し込む。キャリーケースを引いた人が多い。パン屋でお昼に食べるパンを買って、コンビニでアイスコーヒーを買い乗車。

植物は勝手に生い茂っていく。剪定とは基本的に減算の原理で行われている。増殖していく植物に付け足すものはない。枝葉のどこを切るのか(減らすのか)を考えるのが剪定の基本。増殖と減算。ただ減算していけばいいのではなく、できるだけ自然な形で減算していく。枝を切ったときの枝や葉の見え方を考える必要がある。適当に切れば誰かが人為的に切ったのだという事が見えてしまう。切ってはいるが、切っていないような人為的な自然を自然のなかに作らなければいけない。自然と人為的な自然との拮抗の塩梅を見つけるのが剪定と言える。生い茂るのにまかせた植物は見た目があまり自然に(調和がとれているように)見えないという事があるが、これは人間が何を自然と感じるかの問題かもしれない。人間はただの自然を自然なものとしては感じ取れない。ただの自然は混沌としていて、規則性はなく、雑多な物の蠢きとしてある。この蠢きこそが本当の自然ともいえるが、蠢そのものに対して抱かれる感覚は「不気味」さであり、何が蠢いているのかわからない不気味さに手を加えて人為的自然を作り出す。そこには規則性と不規則性のバランスがあり、調和がある。作庭とは自然と人為的自然の構築物を作ることであり、統制のとれた蠢きを作り出すことだとも言える。

剪定をしながら考えていたことを書いているうちに石巻駅に着いた。仙台よりも暑い。ギャラリーに向かいながら写真を撮る。写真は普段から歩くような場所を歩きながら撮っていて、特にモチーフは決めていない。決めてはいないけどシャッターを押す瞬間には偏りがある。街中に漏れ出した無意識に無意識が反応して(意識と無意識の拮抗に反応して)撮っている。人間を蠢き(無意識)と統制のとれた蠢き(意識)のまとまりとして捉えることが出来る。この見方は精神分析的には一般的だが、そう捉えたときに街(自然と人為的構築物の拮抗)を撮るように人(意識と無意識の拮抗)も撮れるし、人を撮るように街も撮れるという気がしてきた。ポートレイトは撮らないが、この回路からなら撮れるような気がする。種々雑多な蠢きとして世界を(人を)を見る(撮る)。

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