雨
目が覚めると雨が降っていてベランダに干したままの服を部屋へ入れようと思いつつぼーっとしていた。しばらくベットの上でスマホをいじってから起き上がり洗濯物を部屋へ入れる。猫が餌を催促してくるので、キャットフードと水を容器にいれてやる。雨が強くて外出する気が起きなかったので自宅で仕事をする。16時頃ホームセンターで看板の脚をつくるための木材を買う。購入した木材に保護用の塗料を塗って今日の作業は終了。コンビニで夕飯を買って食べる。
雨
目が覚めると雨が降っていてベランダに干したままの服を部屋へ入れようと思いつつぼーっとしていた。しばらくベットの上でスマホをいじってから起き上がり洗濯物を部屋へ入れる。猫が餌を催促してくるので、キャットフードと水を容器にいれてやる。雨が強くて外出する気が起きなかったので自宅で仕事をする。16時頃ホームセンターで看板の脚をつくるための木材を買う。購入した木材に保護用の塗料を塗って今日の作業は終了。コンビニで夕飯を買って食べる。
晴れ
最近は風の冷たい日が続いたが今日は暖かな一日だった。日中はドトールで仕事用のチラシを作っていた。TSUTAYAと一体型のドトールで本や雑誌を1冊持ち込めるし近所なのでよく使っている。平日は近所のおばさんやおじさんが集う場所になっていて、2,3人組でテレビニュースや近所で起こった出来事を話している。年配の女性がマルチ商法の勧誘のようなことをやっているときもある。日が暮れてからは近所の居酒屋へ久々にいった。お通しの量が多すぎて飲み物以外のものを注文する必要がないしかなり安上がりで飲める。時短営業だったので早めに切り上げて帰宅。そのまま就寝。
快晴、少し肌寒い
七時半ごろに起きる。今日も猫が餌の時間になるとベットに乗ってきた。午前中、注文していたスポットライトが届く予定だったのでキワマリ荘に早めに向かい掃除なんかをしていた。届いたスポットライトを設置してしばらくすると有馬さんが来たので、個展の作品について少しだけ話す。設置された映像の中に文字があると空間に方向性が生まれるという話をした。映像に使われている詩は別に展示するのもありかもしれない。そうすれば全体的に純度は高くなる気がする。すべてこれ以上引けない状態。ただ、純度だけを求めるのもなにか違う気がするのでしばらくこのままにして反応を見ながら今後の展開について考えようと思う。
残念ながら一部のフェミニストから私は「敵」扱いされています。というのも、4B運動の中でも特に主張がラディカルな人達は、トランスジェンダー女性や異性愛女性の排除にまで進んでいることがあるんです。私のように、男性パートナーがいてトランスジェンダーの友人がいる人は、SNSで攻撃されます。結婚はしてないんですが、「既婚者だ」と誤解されて中傷されることすらあります。これは何もフェミニスト間の話ではなく、社会のいろいろな物事に関して、意見が分断されてしまっているからだなと思います。自分が聞きたいことを話す人だけをフォローする傾向も強いです。 (1)
ブロックもしないけど、反応もしないです。自分と違う立場の人にも、過去に個人的なつらい経験があってそういう考えにならざるを得なかったのかもしれない。でもインターネットだと個人が押しやられて「集団」的に捉えられてしまう。難しいですよね。どんな立場の人からも、私は「はっきりしない人」だといつも怒られます。「あなたは力にならない」とも「あなたは甘い」とも言われる。いつになってもはっきりすることはないと思う。それでも私はまだ、いろいろな「集団」のなかの1人ひとりの人生を想像してみる時間を持ちたい。(2)
どっちつかずの態度表明は無責任なのか、それは立場を表明する責任からのがれている甘えなのか。それはずっと考えている。
(1)(2) Lang Lee 「イ・ランが語る、アーティストの「仕事」と断る「仕事」2021.02.28 https://tokion.jp/2021/02/28/lang-lee-takes-or-turns-down/
快晴、風が少し肌寒い
朝、7時30分ごろに目覚ましが鳴って起きる。起きてからしばらくは身体を起こして何も考えずに近寄ってくる猫を撫でていた。今日は一日快晴で朝の陽射しもいつもより少し強い気がした。目が覚めてきたので洗面台まで行き歯を磨いて、猫に餌をやる。猫はいつも大体同じ時間に餌を要求して鳴いている。彼女はまだ寝ていたが朝食のエッグマフィンを作る。マフィン用のパンにスライスチーズをのせてトーストして、卵とベーコンを焼く。焼きあがったらパンの上にマーガリンを塗って、卵とベーコンをのせ塩コショウを少しだけかける。朝食を作っていると彼女がちょうど目を覚ます。出来上がったエッグマフィンを一緒に食べ、彼女は仕事へ行く支度をして出かけて行った。
午前中は自分のサイトの情報を更新する作業をしていた。データをアップロードして、文字や画像を整頓していく。あまり融通が利かないサービスを使っているので面倒だが使うのをやめる気にもならないのでしばらくはこのサイトを使うと思う。
お昼は近くのあいのやというスーパーでエビフライ弁当を買った。風が少し冷たくて長袖一枚だと寒かった。帰宅すると猫が自分のご飯を要求していたので、キャットフードと水を与える。お昼を食べ終わり、午後からは個展会場で使えそうなスポットライトをネットで探した。程よいものがなくて、どれを買うべきかなかなか決めかねている。しばらくしてコーヒーが飲みたくなってきたのでファミリーマートでモカブレンドを頼む。帰ってきてからは保坂和志の季節の記憶を読んだ。16時にはるひが仕事から帰宅。しばらくだらだらしているとコンビニへ行こうといわれたのでまたファミリーマートへ行った。スパイシーチキンと缶ビールを買って帰宅。
サイトの準備ができたのでFacebookに仕事の依頼を受け付けていると投稿してみたがあまり反応がない。まあそんなもんだろうと思っていたのでいいのだが。
快晴
7時に起床。 9時からともみさんと女川でホタテ漁の撮影。おひるは久々に雲雀に行ってきた。事務所へ戻る途中にあるコーヒーショップでスペシャルティコーヒーを飲んだ。普段飲んでいるコーヒーよりも香りが複雑で雑味がない感じだった。事務所に戻り物撮りをして帰宅。
快晴
7時に起床。はるひに日赤病院へ送ってもらい診察をうける。指の状態は悪くなさそう。その後、実家へ行き55インチのディスプレイをキワマリ荘まで運ぶ。展示に必要な機材をAmazonで注文する。アートはいスクールの映像を編集して24時に帰宅。
晴れ
9時に起床。部屋の掃除と洗濯ものをする。シャワーを浴びてコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い朝食をとる。バスで実家に行き周辺の風景を少し撮影してきた。車で平屋まで送ってもらいコンビニで夕飯を買いアパートに帰宅。
晴れ、少し肌寒い
9時に起床。歯を磨いて猫のトイレを掃除する。ごみをまとめて燃えるごみを出す。ドトールに行ってツイッター哲学を少し読んだ。そのあとインモール蛇田のJINZでメガネのレンズ交換をしてもらった。保証期間内だったので無料。スタバでフラペチーノを購入する。実家に少しより以前届いていたポール・ヴァレリーの本を受け取り、マックのドライブスルーでポテトとビックマックとコーヒーを買う。ガソリンスタンドへ行き車を洗浄する。その後帰宅。三浦哲哉×小松理虔×速水健朗「シン・フード論――『おいしい』から社会を考える」がシラスでやっていたので視聴。
快晴
「かみのたね」というフィルム・アート社のウェブマガジンを見つけた。そのなかの「諏訪敦彦×ロバート・クレイマー対談 コントロールの外側にある協働」を読んだ。
私は、自分たちのためにどうしても解かなければならない結び目(問題)があったから、映画を作ったのだと感じられる作品が好きです。より多くの金が欲しいからでもなく、有名になりたいからでもなく、映画史のことを勉強したからというのでもなく、まずは自分のためにその結び目を解かなければならないと感じられる作品。だからあなたは自分の主観を恐れる必要はありません。「私の問題に一体誰が関心を持ってくれるだろう?」と考える必要はないのです。私はこう考えます。もし自分の問題をはっきり理解することができれば、その作品は他の人々の関心を引きます。なぜなら全ての人が問題を抱えて生きているからです。われわれは孤独ではないのです。このクソまみれの世界の中で。(1)
マクロな目線で見れば自分は石巻市出身で震災当時石巻市の中学校に通っていたので、震災の当事者という位置づけになる。ミクロな目線で見ると石巻でも内陸のほうで、周りは住宅しかない住宅地に住んでいた。震災の被害も津波の影響を受けた人に比べればかなり軽いものだった。だから、自分よりもっとひどい状況の人々と比べれば当事者性はかなり低い気がしている(被害の大きさで比べればだが)。当事者でも非当事者でもない、そういうグラデーションの中間にいるような人達は沢山いるんじゃないか。そういう中途半端な立ち位置を考えながら生きている。
住宅地にするためにできた土地で周りは家と空き地だけ、そんな文化的土壌のない場所で生きてきた。そんな自分が現代美術といううジャンルに関わること、そことの距離感を考えている。
中途半端な位置づけからくる中途半端な距離。海と陸の中間、波打ち際で佇んでいる。そういった光景が思い浮かぶ。偶然打ち上げられた漂流物を拾いながら何かを形づくっている。
属性ではなく、向き合ってきた時間を考える。時間とともに変化し続けていく。ジェンダーも固定されたものではない。当事者か非当事者かも固定されていない。出身地は変えられない、その引力から解放されるために時間を考える。場所から時間へ。分断は存在するが境界線は時間とともに消滅と生成を繰り返す。
https://libraryofbabel.info/なんのサイトかわからないけど気になるので後で調べる。
(1)諏訪敦彦、ロバート・クレイマー「諏訪敦彦×ロバート・クレイマー対談 コントロールの外側にある協働」2020.02.17 http://www.kaminotane.com/2020/02/17/8804/
晴れ
7時に起床。朝食を食べて、処方された薬を飲む。2日前くらいに2回目の指の手術をした、針金を1本だけ入れなおす簡単な手術だったが、術後の痛みがひどくしばらく何もできなかった。術後はカロナール500mg×4、セレコックス100mg×5ぐらい飲んだがまったく効かなくて大変だった。手術前に以前の手術と術後の痛みは同等と考えたほうがいいですか?と医師に質問したが、そんなことはないと思うよという感じの回答が返ってきた。内心では針金を突き刺すわけだから痛くないはずがないよなと思いながらも、安心させるために気を使ったのかなと考えながら手術を受けた。実際、術後の痛みは以前よりひどかったので、自分の場合は痛いですとはっきりいっといてくれたほうが安心する。身体を動かすと心臓の鼓動に合わせて傷が痛むのでここ数日は家にこもっている。
個展用のチラシを作った。まだ未完成。手術室にあったレントゲン用のモニターの文字配列がよかったので真似てみた。
晴れ
「偶然の波打ちぎわ」
境界線を
偶然と必然
そう言い換える
狭間
曖昧な現在地で
宙吊りの身体
波打ち際
砂地に足裏をのせる
海水の冷たさ
陸と海の中間
なにものでもなく
いくつもの集合体
それを受け入れる
高台と
島のあいだの往復
近づくことを
離れることを
繰り返し
暫定的に
船の形を変えていく
水平線は
消えることなく
繰り返される
指先から
血液を伝い
波打つ心臓
内側の触覚
マイナスの距離
困惑して
佇む姿を
眺めている
想像の外側
深さで
覆われた
環状島の内側で
腰を下ろし
吹き抜ける風が
上昇する
流れ続けていた雲が
知っていることを
読み取るための空白
ここから先は立ち入れないと
すれ違う誰かが言っていた
その響きが
充満する
霧
遠くから運ばれた匂いが
脳と触れ合い
葉が光をあびて
風ではためく
光景を
100年後
地中から
掘り起こす
手についた
土から漂う
時の香りを
手繰り寄せ
誰かのためにではなく
自らのためにでもなく
なにも捧げない
その気持ちを
保ち続ける
晴れ、昨日より少し肌寒い
あらゆる証言が代弁としての機能をもっている。つまり「すべての証言者は代弁者である」こと。ただ代弁であることはその証言の価値を下げないし、証言はそれ自体として尊重されるべきものであること。被害者の声が言葉になるかならないかの領域、つまり、〈内海〉の〈波打ち際〉で起きていることが重要であり、支援のもつ意義の一つは〈内海〉から証言者を〈陸地〉に引き上げることにあること。(1)
(1)宮地 尚子 環状島=トラウマの地政学 2018.07.05 みすず書房 p16-p17
晴れ、とても暖かい
ドトールで宮地尚子の環状島=トラウマの地政学を読んでいた。編集用のPCを自作PCにするか考えている。次購入するカメラとしてsigma fp lとSIGMA 24-70mm F2.8 DGDN Artがいいかなと思っている。なんとなく黒嵜想、大和田俊、福尾匠のペリスコ配信を観た。ペリスコというサービスを初めて使った。使いやすそうだったが今日でサービスは終わりらしい。手術した指に針金が刺さって突き出しているので、指先に何か触れると表面的な感覚と針金を伝って内側の感覚がどうじにやってきて変な感覚。これがあと1か月続くのか。
「それよりも中空構造を直視し、この問題に巻き込まれながらも発言しない・できないでいる人たちがいるのではないか」「この問題はどのような広がりのどのような高さの環状島を形成しているのか」「この環状島のどこに位置して、どのような発言をしている(またはしていない)のか」「この人の発言は、環状島のどの範囲の人たちの存在にあてはまる内容か」「この人は環状島の他の場所にいる人たちの存在にどれくらい気付いているか」といった問いを立てることに、可能性が見いだせはしないだろうか。(1)
(1)宮地 尚子 環状島=トラウマの地政学 2018.07.05 みすず書房 p16
晴れ
7時に起床。はるひが二日酔いでひどそうだったので、コンビニでポカリとヘパリーゼを買ってきてあげる。歯を磨く。荷物をまとめて平屋に行きデータの整理をする。夕方志村さんと打ち合わせをして帰宅。
曇りのち雨、少し肌寒い
一昨日、指の手術をして、その痛みのせいもあって日記がなかなか書けなかった。手術は部分麻酔で行ったので、骨を触られている感覚や血がつたってくる感覚があり少し気持ち悪かった。麻酔は手術後数時間効いていたが、麻酔がきれてからは結構な痛みだった。病室は暇だったので、自分のサイトを作っていた。夜はあまり眠ることができなくてつらかった。次の日は痛みは少し引いていたがやはり痛かった。
今日ははるひと牧場ラーメンを食べに行った。はじめて食べた。美味しかったが可もなく不可もなくという感じで、とびきり美味しいというわけではなかった。隣にあった蒸しパン屋で蒸しパンを3つ買い、山に行き帰宅。はるひに頼まれて安野モヨコの監督不行届きをツタヤに借りに行った。Tカードの有効期限が切れていて、身分証がなかったので一度家に戻り、また借りに行った。ついでに柳美里の「南相馬メドレー」を買った。帰りにスーパーでパンとクリームチーズとノンアルコールビールを買って帰宅。
https://hayatokano-official.blogspot.com/
新しい自分のサイト。
次の個展のタイトルは「偶然の波うちぎわ」になりそうなきがする。
晴れ、風が強い
7時半に起床。歯を磨き猫に餌をやる。パンと卵とハムを焼く。コーヒーを淹れ朝食をたべる。はるひは9時前に出社。自転車でセカンドストリートへ行き、thinkpad x260を買う。新しいmacが発表されるまではこのパソコンでしのぐつもり。平屋で購入したパソコンの状態を確認しセットアップを終わらせる。iroriへ行き昨日購入した本を読む。スーパーで食材を購入して17時に帰宅。洗濯機を回し、はるひの運転でコインランドリーの乾燥機をかけにいく。車内でちょうどやっていた庵野のプロフェショナルを見る。しばらくして帰宅。
曇りのち雨、寒い1日だった
8時に起床。ローソンでおにぎりを2つ買い朝食。9:30からyottaさんの金時を撮影。鮎川までいった。帰宅してイトナブのイベントに行こうとしていたら、ちょうどはるひがアパートにきたので一緒に車で送ってもらう。途中で震度6ほどの地震があり、津波警報もでたので、そのまま日和山まで避難。1時間経過後帰宅。本などが散らばる程度で大きな被害はなかった。
晴れ
起床。歯を磨く。燃えるゴミを出す。コンビニでサンドイッチとコーヒーを買う。スーパーでハヤシライスの材料を買いお昼を作る。MKE440が実家に届いたので、はるひの運転でとりにいく。途中スターバックスのドライブスルーで飲み物を買う。14時からyottaの金時の撮影があった。19時頃に職質にあう。その後解放されて解散。こんびにで弁当とyonayonaを買い帰宅。
晴れ
8時に起床。目玉焼きとハムとパンを焼きクリームチーズとメープルシロップをつけて食べる。昨日届いていた「指差すことができない」という詩集を読む。洗濯機を回し、洗濯物を干す。掃除機をかける。領収書の整理をする。「壁ぎわの記憶 -空間の物語-」という大崎清夏が行っている連載を見つけた。面白そうなので後で読んでみる。なんとなくLang Leeのインタビューを読んだ。
私はお金について日本の友達にも詳しく尋ねます。家賃がいくらか、ギャランティがいくらか。日本ではそういう話すると友達の仲でも“え……”って感じになっちゃいますね。でも、そういう話をしないと”頑張らなきゃね”ってだけで全部が曖昧になってしまう。韓国ではみんなではないけれど、私の周りの人たちはお金の話をよくしてる。みんなのお金事情がわかれば計算ができるから、解決する方法もみんなで考えられる。生活って具体的な問題だから、具体的に考えなきゃダメだと思う。私の友達には家具を作っている人がいて、必要なものを作ってくれたりする。それも、私たちが具体的な話をしているから、ただの想像じゃなくて私に何が必要か具体的に知ってくれているからできる。そんな形になるのが、お互いに役に立てて良い。(1)
晴れ、風が強い
8時に起床。歯を磨き、朝食のパンとベーコンと目玉焼きを焼く。はるひに日赤病院へ送ってもらう。診察を受け来週の金曜日に手術をすることが決まる。採決をされ、はるひとタリーズで合流する。マックのドライブスルーでエグチセットを頼んで帰宅。平屋へ行きたのまれていたイトナブ10周年へむけてのメッセージを撮る。帰宅して夕飯をたべ、撮影につかうmke440というマイクをAmazonで注文する。
曇り
そこにたとえば風景論が成り立つ根拠がある。つまりそれぞれの個人なり、民族なりがさまざまの仕方で風景を〈身分け〉されている。それからまた、社会的風景というべきもの、つまり他者との関係があります。他者との関係のなかで自分の身が〈身分け〉される。そういう〈身分け〉の一つのケースとして、空間をとらえてみたいと思うわけです。(1)
たとえば、生きられる空間にには〈場所〉というものがあり、〈方向〉というものがある。したがって空間それぞれの部分はお互いに異質です。ニュートンが考えたような絶対空間は、どこをとっても同じであるという意味で均質空間といえます。それに対して、われわれが生きている空間には、常にここがあり、あそこがある。そして、いつもここからあそこへと一つの展望(パースペクティブ)でもって世界をとらえています。ここ-あそこという場所性があり、ここからかなたへという一つの展望がある。そして展望のかなたには、また展望の背後には、とらえ得ない拡がりが拡がっていて、それをわれわれは地平と読んでいます。そういう意味では生きられる空間は無限空間ではなく、或る有限性をもった空間であり、奥行きのある空間です 。ここという場所性がなければ、隔たりというもの、距離というものはないといっていい。(2)
こことあそこ。大陸と島。つなぐ海。行き交う船。こことあそこでもない、どちらかではなく、近づき離れていくなかで身構える。思考する。その時間がすべて。
(1)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p142-143
(2)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p144
晴れ、風が少し強い
7時に起床。歯を磨いて、洗濯物を干す。もう一度洗濯機を回し、残りの洗濯物を干し、コンビニへ行く。コーヒーとスパイシーチキンを買う。iroriへ行き身の構造を読む。はるひから電話があり、元気の湯に行きたいと言われたので、一緒に行くことにした。久々にサウナと露天風呂に入れて心地よかった。帰宅。昨日Amazonで注文した「狸の匣」、「美しいからだよ」、「する、されるユートピア」という3冊の詩集が届く予定だったが、配達とすれ違いで明日郵便局へ受け取りにいくことにした。
雨のち晴れ
9時頃起床。はるひに車でおくってもらい11時過ぎにキワマリ荘へ行く。その後iroriへいき身の構造を読む。電車で塩竈に行き、塩竈市杉村惇美術館でかんのさゆり、菊池聡太朗、畠山直哉のクロストークを聴いた。時間の都合で途中退席して帰宅。キワマリ荘へ行きくるみさんに会う。みしおくん、平野くん、SoftRibさん、くるみさん、はるひで焼き肉を食べにいく。
晴れ、暖かい
8時に起床。9時過ぎに志村さんが迎えに来て、山川さんの撮影の現場へ向かう。到着して機材の準備と軽い打ち合わせをして昼食をとる。さこさんが作ったカレーとはっと汁を食べる。3時まで待機し本番前のリハーサルを行う。一旦戻り小休憩。船乗り場に戻り本番の撮影。無事に終了。帰宅。はるひがお風呂を入れてくれていたので湯船に浸かる。
快晴、とても気持ちの良い天気
7時半に起床。歯を磨き猫へ餌をやる。トーストと目玉焼きとベーコンを焼いて朝食をとる。東浩紀の突発放送のアーカイブ を見る。コンビニでフルーツミックスサンドとモカブレンドを買って昼食を取る。14:46、黙祷のサイレンが鳴る。1分間黙祷をする。平屋に行き、その後に整形外科に行って怪我をした指を見てもらう。骨が折れていたらしい。手術が必要な可能性が高い。
この章で僕が最も伝えたいことを前もって書いてしまうと、地域のためとか、復興のためとか、家のためとか日本のためとか、そういうことは一切考えなくていい。あなたはあなただけの人生を堂々と歩むべきだ、それが地域とともに生きること、課題とともに生きることなんだ、ということです。
災害が起きたり、課題が深刻になると、「復興のため」だとか「地域のため」だとか、個人よりも大事な何かが生み出され、多くの人がそれに動員されていきます。日本の、特に課題だらけですから、こちらは、地方の再生のために命を投げ出すような動きが称賛されるかもしれません。けれど、そういうものはまやかしだと思っています。そんなもののために自分を犠牲にしないでください。大事なのはあなた自身です。どこまでも自分の関心や興味や、自分の課題や生きづらさから出発すればいいんです。それぞれが多様な自分だけの「復興の物語」や「地域創生の物語」を生きればいい。僕がこの章で言いたいことは実はそれだけだったりします。(1)
地方で作品を作ることに、被災地という場所で作ることにどういった意味があるのか、そう問われたことがある。正直その問いに僕はピンときていなかった。そこで問われことに対して、誰かが納得できる回答を与えられたとして、どれだけの価値があるのか。
復興のため、地域のため、そういう名目から逃れるために生きてきた。高校生の頃からこの言葉が持つ曖昧さに違和感を感じつづけてきた。もっと違う形で、この土地と関わりを持てるのではないかと思ってきた。自分がこの場所でやりたいと思えることにちゃんと向き合うこと、それが復興に似た何かなのではないかと高校生の僕は考えていた。
(1)小松理虔 地方を生きる 2021.01.10 ちくまブリマー新書 p173-174
晴れ
8時に起床。歯を磨き、猫に餌をやる。肉じゃがを温めて朝食をとる。ドトールへ行く。伊藤亜紗の「記憶する体」を少し読む。スーパーで朝食用のパンを買い帰宅。猫に餌をやり、平家の様子を見にいく。炬燵がつけっぱなしだった。みしおくんが消し忘れていたのだろう。帰宅して家の掃除と洗濯物を干し食器を洗う。夕飯にフランスパンのトーストとコンビニで買ったカニカママヨネーズ和えを食べビールを飲む。ヴァレリー 芸術と身体の哲学を読了。二周目に入る。
いかにしてある出来事が体に刻まれるのか。刻まれた記憶はその体においていかに作動するのか。(1)
一方、本書が扱うのは、出来事としての記憶そのものではありません。特定の日付を持った出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカルルールに変化していくか。
つまり。この本で注目したいのは、記憶が日付を失う過程です。(2)
健常者としての記憶が刻まれた体で、障害のある体を生きることが彼らの体が二つあるように見える原因です。「多重人格」ならぬ「多重身体」。一つの物理的な体の上で、健常者の体と障害者の体が重なり固有のパターンを作り出します。(3)
暗算で行う場合、私たちは全てのプロセスを頭のなかに保持しつづけなければなりません。けれども筆算の場合には、大きな計算のプロセスを小さなプロセスに分け、書かれた文字に対して足したり掛けたりといった機械的な操作を行えばよいことになります。「書く」は「考える」を拡張する手段になるのです。(4)
重要なのは、吃音含めなんらかの障害を持った人間である、ということではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた、その長時間の蓄積こそ、その人の体を、唯一無二の代えのきかない体にしているのではないか。
つまり、〇〇であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごしてきた「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(5)
とても共感する。なぜなら石巻で生まれたという属性、被災者という属性ではなく、石巻という場所とともに生きてきた「時間」、震災という出来事に向き合った「時間」が重要であり、属性に縛られる必要はないのではないかと考えてきたからだ。以前作った作品も石巻で過ごしてきた「時間」をテーマにしている。それは石巻出身という属性を重視していなかったから生まれた作品だと考えている。
なぜなら、どんなに科学技術が発達したとしても、思い通りにならないことと、人為的に介入しうることの間で人類は悩み、そして発見し続けるだろうからです。条件は変わるだろうけれど、問いとしては同じ。それが体を持った者の宿命だからです。(6)
自然と人為の間で人は悩み、なにかを発見していく。それは普遍的な営みなのではないか。
(1)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p9
(2)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p10
(3)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p12
(4)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p35
(5)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p268
(6)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p275
晴れ、少し肌寒い
8時起床。昨晩作った肉じゃがを温めて、お米を炊き朝食をとる。部屋を片付け、猫のトイレを掃除して、燃えるゴミを出す。ドトールに行きヴァレリーの続きを読む。帰りに薬局で歯磨き粉と新しい歯ブラシを買い帰宅。洗濯機を回し、イシノマキアートはい!スクールの映像編集を進める。字幕を追加した。猫に餌をあげて、コンビニへコーヒーを買いに行く。夕飯は残りの肉じゃがを食べる。ノンアルコールビールを飲んだ。なんとなく「世界の車窓から」をAmazonプライムで流して、本を読む。お風呂を洗ってお湯を入れた。
デザインは行為の可能性を限定していく。芸術は行為の可能性を拡げていく。ような気がする。
晴れ
シン・エヴァンゲリオンを観るために、7時に起床。自転車でイオンシネマ に向かい、8時半からの上映を観る。とても良かった。感想は後日書く。鑑賞後スタバでシラスのエヴァ回を観る。しばらくしてからマックにより帰宅。部屋の掃除をして、食器を洗う。ともみさんと写真の仕事の価格帯を決めるオンラインミーティングをする。はるひが撮影で使った蟹を持って帰宅。コンビニでビールをかい夕飯を食べる。明日の朝に食べる肉じゃがを作り、風呂に入って就寝。
晴れ
10時に起床。はるひの運転の練習もかねてドン・キホーテとイオンに行ってきた。どちらも物と人が多くて疲れる。イオンの中にあるマクドナルドでビックマックセットを注文して昼食。本屋で「地方を生きる」を買う。帰り際にドイツのビールを買って帰宅。編集中の動画の作業を進める。7割ほど終わる。音声の調整、字幕の追加、クレジットの追加で完成予定。風呂に入り、昨日の撮影でもらったローストビーフとビールで夕飯をすませる。明日は8時半からエヴァの映画を観る。
晴れ
7時半に起床。クロワッサンとコーヒーで朝食をとる。9時から商品の物撮りの仕事があった。通販サイトで販売される商品。コンビニで買ったチキンとコーヒーで昼食。4時半頃に撮影が終わり帰宅。映像の仕事の編集を進める。コンビニで納豆巻きとフランクフルトとノンアルコールビールを買い夕飯を食べる。
快晴
8:30に起床。いつもより遅い。シャワーを浴びる。エヴァンゲリオンの初日のチケットを予約した。8日の8:30から上映。iroriへ行きヴァレリー芸術と身体の哲学の続きを読む。2時から前面貸し切りだったので、珈琲館へ移動する。はるひから電話があり鍵を忘れたと言われたので、帰宅して鍵を開けてあげる。洗濯機を回し、掃除をする。燃えるゴミを出し忘れたことに気がつく。来週の火曜日に出すことにする。百均にハンガーを買いに行き、ツタヤによって「〈ものまね〉の歴史」と「論理トレーニング101題」を買う。スーパーでビールと白角水割と白身のフライとカレーを買って帰宅。シラスでやっていた「コロナの現実とホラーの可能性、あるいは人形というメディア」を見ながら夕飯。
予期とは、過去を手がかりに未来に起こりうる出来事を想定することであり、現在を過去と未来という二つの方向に結びつける契機である。(1)
予期されたものと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は、不意を打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、、主体は、迷い、混乱し、ためらう。(2)
意識されているか否かにかかわらず、覚醒している限り予期は常になされている。予期することは必ず、その出来事の生起に向けて身構えること、応答するための行為を身体的に準備することを伴っている。そしてこうした身構えが、私たちと外界の出会い方を大きく左右するのである。予期しだいでは、同じ出来事であったとしてもその価値はまったく別のものに変わってしまうだろう。ヴァレリーが重視するのは、出来事それ自体の価値ではない。あらかじめ予期によって状態づけられた私たちにとっての、その出来事の価値である。(3)
観念そのものの価値と、その刺激としての価値、つまりそれが出来事として私たちに及ぼす作用を、区別しなければならない。ある観念が刺激としてどれだけの価値を持つか、つまりその観念のまわりにどれだけの観念を形成するかは、そのつどの主体の側の条件によって変化する。(4)
元々現代アートに興味があったわけではない。幼い頃身の回りに現代アートと言えるものは微塵もなかった。幼い頃の記憶は空き地と住宅の建設に結びついている。遊び場は住宅の建設をまつ空き地だった。今街に広がっている均質的で似たような建物が並ぶ風景は自分にとって故郷の風景に重なる。この均質的な風景をどう捉えていくのか。
「どういうこと?」と問われて「つまり」と応じ、具体的に説明しようとするなら「たとえば」と応じる。「それから?」と問われて「そして」と応じ、「どうして?」と問われて「なぜなら」と続ける。あるいは、相手が思っているのとは違う方向に話を転換させようと思ったならば「しかし」と切り出す。
文章は、それがたとえモノローグの見かけを持っていようとも、基本的に対話の構造を持っている。議論を読み解くとは、なによりもまずこうした問いと応答の流れを読むこと、その対話の構造をつかむことである。そのリズムが送り手と受け手で共有されたとき、わかりやすい文章が生まれる。(5)
(3)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p158
(4)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p159
(5)野矢茂樹 論理トレーニング101題 2001.05.15 産業図書 p9-10
快晴
コンビニのシーチキンサラダを食べて朝食。本を読んで、お昼になったので、昨日買っておいた根菜カレーを食べる。なんとなく福尾匠のYoutubeに上がっている「作品と広告」という動画を見る。ともみさんに請求書を出して、洗濯機を回す。Amazonから注文していた本が届く。「見立ての手法」「グリッドシステム」「エクソフォニー」「空間へ」。あいのやとヨークベニマルに数日分の食料と猫の餌を買いに行く。肉じゃがのための食材を買って帰宅。洗濯物を干す。はるひがノンアルコールビールを買ってきてくれた。ここ数週間はアルコールをとっていない。1日が長く感じる。
作者の意図の代わりに、私の意図が入っているだけなんですよ。作者の意図を作品から取り除けるのであったら、私の意図っていうものもそこに持っていく必要はないはずで、意図(作者)と意図(私)のやりとりというレベルで考えている限りでは、広告的なものというのは脱することはできないと思うんですよね。ていうのは、人がどういう意図を持っているというのは、必ずなんらかのリスク計算や利益計算がなされているものなので、そこにはあらかじめ自分が求めているものしか見えないっていうことが起きちゃうわけですね。だからこそ、今日冒頭で言ったように作品の内実っていうものを見ずにすんじゃうわけですよ。(1)
タコは岩を見るとその岩に似るんですよ。だから、岩に隠れられるわけですよね。……人間は身体ごと変化するわけじゃないけど、何かを知覚する、何かを聞いたり見たりするっていうのは、部分的にそういうものを含んでいると思ってて、何かと本当に出会うっていうのは自分が変わっちゃうということなので、何かが作品としてそこで見られるってことと自分が変わること、もっと言えば消えちゃうことですね、隠れちゃうこと、人から見られなくなっちゃうこと、まさにタコが岩を見て岩に似るようにですね ……他の人から知覚されなくなるというのがどう言ったことかというと、さっき言ったような「あなた」と「私」とか、「我々」と「彼ら」とかっていう敵味方のロジックに拐取されない部分を作れるんじゃないかと思っています。(2)
それに対して作品っていうのがルアーじゃないとしたらなんなんだろうと思ったら、デコイ、おとりだと思っていて僕は、デコイっていうのは、私が消えるための装置なんですね、私が私じゃないものになるとか、私が人から見えなくなるとか...(3)
(1)(2)(3) 福尾匠 哲学対話 PARA SHIF「作品と広告」2020年2月22日
晴れ、風が少し強い
トーストとベーコンと目玉焼きを焼いて朝食。映像を編集するためにデータの整理をする。まず必要なフォルダを準備することから始める。やりやすいことから少しずつやっていかないと終わらない。まず手が動かせることから始める。コンビニへ行くために外に出る。ブルーインパルスがかなり低い位置を飛んで行った。カップヌードルとホットコーヒーのMサイズを買う。エヴァンゲリオンの予告を観ていたら宇多田ヒカルが聴きたくなり、spotifyでしばらく宇多田ヒカルを流していた。夕飯に半額になっていた、鶏肉と揚げ餃子の弁当といちごのサンドイッチと水を買う。
したがって、問に応答するゲームとしての詩作は、自己表現というより自身のプレイヤーとしての能力を試し鍛える「練習」のようなものである。もっとも、詩作を「練習」とみなすといっても、それはもちろんヴァレリーが自身の詩の質に関して無頓着であったということを意味するわけではない。上の引用にあるように「練習」として詩を作るとは「即興に抗う」ものでなければならず、一歩一歩、一語一語、語を置きつつそれを条件と照らしあわせるという、そのつどそのつどの判断が要求される作業である。(1)
みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を自分の実存と結びいた必然的な表現とみなさないことは、逆に偶然思いついた表現をあたかも自分の語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。偶然の語であったとしても、作詩をゲームととらえる以上、その語は自分の今後のゲームの展開を導く「問い」に他ならないからである。それはちょうど、カードゲームにおいて最初に配られたカードを自分のものとして引き受けるのと同様である。(2)
(1)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p137-138
(2)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p138
雨、湿度が高い、冬が終わりつつある
いつもより少し早く7時に起床する。加工場でバイトしてた時は毎日6時前には起床していた。炊き込みご飯を炊く。燃えるゴミを出す。平家のゴミも出さないといけないので、平家まで自転車で行きゴミを出す。帰宅後、目玉焼きとベーコンを焼き朝食をとる。ヴァレリー芸術と身体の哲学の続きを読む。コンビニにコーヒーを買いに行く。朝は降っていなかった雨が降っていた。昼食は昨日買ったパンにクリームチーズとメープルを塗って食べる。夕飯にシーチキンサラダとカップ焼きそばを食べる。普段はシャワーだけだが、久々に湯船に浸かった。今日はロシアのどこかの街のラジオをずっと聴いていた。
若い作家のインタビュー動画を見ていて、その人について検索していたら、23歳で亡くなっていることを知った。映像を見る限り生きているだろうと思っていたので、喪失感のようなものに襲われる。Twitterで亡くなった本人のアカウントから訃報が知らされる感覚に似ている。死後も映像やアカウンは残り続けている。
晴れ、かなり暖かい、春の兆し
チーズ塩パンとフランクフルトを食べる。シラスで放送したいたよしながふみの「大奥」についての放送を観ていたら、Amazonで注文していたサイアノタイプの薬品が届く。ドトールに行ったついでに(また行っている)大奥の漫画を借りようと思ったが、Tカードを忘れていて断念。1話だけ無料で公開されているので、とりあえずそれを読むことにする。シン・エヴァンゲリオン劇場版の公開日が発表された。いつ観に行くか悩む。
個展の作品でレンチキュラーレンズを使う予定だったが、本当に必要なのか考え直している。そもそも1枚のプリントで10〜15万円くらいかかるし、使うことに必然性があるのか考えている。それよりもcanonのプリンターを買った方がいいかもしれない。
ポール・ヴァレリーが朝まだ暗いうちから数時間、毎朝書いていた「カイエ」という思索ノートを読んでみたくなった。50年間描き続けていたらしい。ノートで261冊。そんなに続けられる何かがあるだろうか。とりあえず、昨日届いた本を読み進める。
23時頃コンビニへ行くために外へ出たら夜風が生温く、少し磯の香りが混ざっていた。懐かしさがある。最近、Radio Gardenという世界中のラジオを聞けるアプリで色々な国のラジオを聴いている。ノルウェーやイギリスのラジオをよく流している。
ドラックストアでいつも使っている歯磨き粉を買い忘れたので、コンビニで一番安いものを購入してその場をしのぐ。
快晴、雲ひとつない
肉まんとチョコレートクロワッサンを食べて朝食。多和田葉子の献灯使を読んで、13時すぎにiroriへ行きコーヒーを飲む。その後、石巻のキワマリ荘に行きミシオくんと今川くるみさんに会う。しばらくして駒嶺さんと渋谷さんと共にART DRAG CENTERへ行き有馬さんと平野くんに会う。駒嶺さんは有馬さんに、アートロンについての文章がわからないと言っていた。有馬さんは、かなり頑張って書いた文章がわからないのなら、伝わらないかもしれないと言っていた。駒嶺さんは、流行りの単語や概念を表面的に掬い取って扱うのが嫌らしい。(有馬さんのことではなく)皆が同じような内容の文章になっている気がすると言っていた。それが嫌なら自分で違う文章を書けばいいんじゃないかと有馬さんに言われていた。その後、時間になったのでキワマリ荘に戻り、ミシオくん、平野くん、守さん(兄弟)と少し話てから帰路に着く。はるひに頼まれていたシメジとエノキと水をスーパーで買い帰宅。Amazonで注文していたクレヨンと伊藤亜紗の「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」が届いていた。今日はとても月が大きかった。
晴れ、風が少し強め
ファミリーマートでマーラーカオとガーリックトーストとモカブレンドを買って朝食。部屋の片付けをして掃除機をかける。はるひが長期レンタカーの契約へ行ったついでにケーキを買ってきてくれたので、お昼に食べた。風が強く寒い日が続いていたが、少し気温が上がってきた気がする。洗濯物をほすにはちょうどいい天気。ドトールへ行って時間を潰す。最近連日行っている。夕飯は近所の焼肉屋に行った。自分の胃袋を過信してしまい、90分食べ放題を選んでしまった。最終的にあまり食べれず失敗。今度からは単品にしようと昔も思ったことがあるような気がする。
僕が住んでいた場所、つまり実家のある場所は、高台の上に作られた住宅地で周りには田んぼしかなかった。今では住宅に紛れ込む形で、レストランやカフェのようなものができている。最近はセブイレブンもできていた。だけど、僕が小さかった頃は、住宅の建設を待つ空き地ばかりで本当に何もない場所だったと思う。
段違いになった空き地に行くと観る事ができる土の積層が、唯一時間の積み重なりを感じさせた。層ごとに色の違う土を別々に掘り起こしてよく遊んでいた。
住宅地にするためにできたような場所なので、その土地には文化的な要素も掘り起こせる歴史もなかった。そんな非歴史的な土地で生活したこどが、場や風景を考えて制作をしていることに影響を与えているのかもしれない。(写真は関係ない)
曇り
朝ごはんはトーストだった。志村さんに提出する請求書を作ってコンビニでスキャンして送信。はるひがお昼ご飯とコーヒーを買ってきてくれたので昼食。午後はドトールで伊藤亜紗の手の倫理を少し読んだ。アメリカンコーヒーとアイス抹茶ラテとジャーマンドックを注文した。帰りにスーパーでとんかつ弁当と割引の苺とノンアルコールビールを買った。
まっさらな土地に何か造られていて、過去も現在もなくて。未来のことは語っているんだけれど、その未来の話も手ごたえがなくて、伝承って何だろうと思いました。(1)
先日、塩竈市杉村惇美術館でやっている、かんのさゆりと菊池聡太朗の「風景の練習」という展示を観てきた。文章は五十嵐太郎を加えて行われたクロストークの記録を読んでいて目にとまったもの。「その未来の話も手ごたえがなくて」というところが身に染みた。
伝統を引き受けることは常に今あるものを再定義していくことで、訂正可能性に開かれていなければ伝統を引き継ぐことはできない。これは東浩紀がシラスの放送で言っていたこと。(うる覚えで書いてる。)対象が訂正可能であることを忘れるとナショナリズムや排外主義に陥る。
中谷礼仁の「セヴェラルネス+: 事物連鎖と都市・建築・人間」という本では先行形態という概念が紹介されている。街の中に突然現れるカーブが、同じ場所に元々あった前方後円墳のガーブに沿って作られている。つまり、人々は先行して存在していた形態に影響を受けながら街を作っているということになる。それは、無意識的な歴史の参照でもある。そこから、広島原爆投下のような先行する形態が何もない焼け野原になったとき、人々はどうやって街を再建するのかという問いに向かっていく。この本は広島について触れているが、必然的に津波の被害で更地になった被災地はどうなのかという疑問が生まれる。(この本はとても面白いのでおすすめ)
石巻の街は常に更新され続けていて、数ヶ月単位で新しい建築物が立ち現れている。しかし、そこにはその場が持っている歴史への再定義がないし、はたして広島のような先行形態からの豊な影響、無意識的に受け継がれている歴史のようなものがあるのだろうか。
過去も現在もない街に石巻はなっていくのか、未来の話にどうやって手応えを覚えていけばいいのか...
晴れ
朝食はフランスパンをトーストしてマスカルポーネとメープルを塗ったものと、ベーコンを焼いたものを食べた。コーヒーを飲んで14時ぐらいまでは何もせず、ぼーっとしていた。洗濯物を干して、食器を洗う。出さなければいけない請求書の整理をして、仕事で制作した映像をまとめた。夕飯にコンビニでビビンバ丼とノンアルコールビールを買った。市川浩の〈身〉の構造 を読んでいる。
晴れ、風がとても強い