今日は今年に入ってから特に暑い一日だった。外にいるだけで体力が奪われていく。もっと暑い日々がやってくるのかと思うと気が滅入ってしまう。今日は庭に石を据えた。石の形を見て最終的な並びをイメージしながら作業を進めていく。合端(石と石の接合部分)、天端(石の上面の平らな部分)面(見つき、据えたときに正面に来る部分)の三点を基本的には気にして据えていく。特に不規則な石の形のなかから合端を合わせていくのが難しい。石のランダムな形をよく見ること、そのなかから組み合わせを決めて並べていくこと、偶然性との戯れ。庭を作るのは日々の中に脱目的性をもった空間を作ることであり、動線を決めたり、ガーデニング的な要素を加えていくのは、目的性をある程度足していくためなのだろう。脱目的性を強めると枯山水とか抽象的な庭になっていくのかもしれない。
“純然たる人為的構築物もなければ、純然たる「私小説」もないのです。この二極の揺れ幅のなかで、あらゆる小説は動いているのです。”
千葉雅也 「「私小説論」、あるいは、私の小説論」 河出書房社 項236
創作とは現実と何らかの関係をもつこと。その関係性を作り替えていく行為。
創作をするモチベーションは本当に人それぞれで一般化するのは難しい。
まず、思いつくものは似たり寄ったりのもになりがちである。むしろ現実をよく観察して、そのなかから何かを紡ぎ出す方が、固有性をもったものが生まれる可能性がある。
過ぎ去っていく今日を遅らせながら、日々の断片から何かを紡ぎ出すことはできるだろうか。
偶然的であるとは、意味がなくて、だからこそ自分自身が反映されていて、恥ずかしくて、耐えがたい。偶然性に耐える。
現実の複雑さそのものに向き合う。現実かどうかの外で偶然性そのものに向き合う。